【連載コラム】写真家 大和田良 思春期のようだったあの頃。なにかを求め、夜ごとさまよった日々。

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Photography & Essey「うすあかりと、写真」第4回

撮影データ:キヤノン EOS 5D Mark II/EF50mm F1.4 USM/絞り優先オート(F2.8/1/30)/ISO 200/WB:オート

 夜の光の中でひときわ輝きを放つのは、(僕の目において)飲み屋のそれだ。今では夜の街をふらふらと徘徊することなどほとんど無くなってしまった。それでも、偶然良さそうな居酒屋やバーを見つけると小さな満足感と期待は未だに得られるように思う。
 昔よく通ったのは、家の近くである新宿や大久保だった。一時期にはほとんど毎晩のようにゴールデン街に通い詰めた。誰かと一緒に行くときなどには写真の話ばかりだった。みんな自分自身が写真でなにをしたいのか分からないから、ただただ抽象的な写真論をぶつけあっていた。考えてみると、その頃学生だった僕らは写真に自分を必死に投影しようとしていたような気がする。自己表現の器にしていたとでもいえるだろうか。一方的に熱を上げ、写真との相思相愛を求めるようなそれはなんだか思春期のようであった。自分だけが写真と分かり合えるのだというような鼻息の荒さを感じさせるものだった。そんな意識の暴走を夜な夜な赤提灯の下で繰り広げるというのが、その頃の思い出の多くを占めている。
 ただ、そんなことばかりではなく、それを鎮め落ち着いて写真のことを考えられるようになっていったのも酒場でのことだった。その多くは写真とは関係の無い、まったく違った職を持とうとする人との話からだった。例えばミュージシャンだったり、劇団員、イラストレーター、画家、絵本作家、小説家。そのような、自分と同じようになにかを志そうとする酔漢との話は、自分と写真のことを見つめ直すのにとても役に立ったと思う。彼らが口角泡を飛ばしながら論じるその内容は、そのまま自分を見るようだった。
 演技とは、文学とは、ロックとはと語るその姿は、自分が写真とはと語るそれとなんら違ったところが無かった。それは各々の芸術に対する切実さではなく、自分がなにかを成し遂げたいという欲望への切実さだった。それを何度も自分に自覚させながら、思春期のどろどろとした時期を少しずつ後にした。
 冷静に、慎重に写真について考えられるようになったのはここ最近のような気さえする。それはいくつかの作品に由来するかもしれない。自分の手を完全に離れ、その写真が自分という作者を超えて佇んでいるように見えた時があった。そんな時、写真家として自分のやるべきことが少しだけ見えたような気がした。今はそれを一人でゆっくりと考える時期かもしれないと、夜のネオンを過ぎながら思う。

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写真・文=大和田 良
東京工芸大学大学院メディアアート専攻修了。05年スイスエリゼ美術館による「reGeneration 50 photographers of tomorrow」に選出され以降国内外で作品を多数発表。
http://www.ryoohwada.com/

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